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ボート競技における乳酸値の活用
ボート競技のトレーニングに造詣の深い、立命館大学理工学部教授(スポーツ科学博士)の里見潤先生に、トレーニング方法の生理学的なバックグランドや血中乳酸値の活用方法などについてお聞きしました。
里見先生は、東京教育大学(現筑波大学)体育学部を卒業後、順天堂大学大学院へ進学し、その後、西ドイツの国費留学生としてドイツ・ケルンスポーツ大学のスポーツ医学研究所に6年間留学されました。そこで心臓病のリハビリテーションをはじめ、トップアスリートの科学的トレーニングのサポートなど様々な研究プロジェクトに参加された経験をお持ちでいらっしゃいます。
今回は、里見先生が多くの論文を発表されているボート競技のトレーニングについて、実践的な内容をご紹介します。
▲立命館大学 里見潤先生
<目次>
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里見先生がボート競技に携わるようになったきっかけ
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ボート競技のトレーニングについて
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ボート競技のレース中の血中乳酸値について
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血中乳酸値を用いたトレーニング方法について
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ボート競技のトレーニングにおける注意点
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トレーニングにおける乳酸測定の意義
先生がボート競技に携わるようになったきっかけを教えてください。
私自身はボート競技の経験はありません。その私がボート競技のサポートに関るようになったのは“血中乳酸濃度測定”がきっかけだったといっていいでしょう。
ドイツから帰国した1988年頃に、京都府のボート競技の高校生国体強化チームの指導者から血中乳酸濃度測定の依頼やトレーニングについての相談がありました。ボート競技の盛んなドイツでは、当時すでに乳酸測定を有効に活かした質の高いボート競技のトレーニングコンセプトが選手・指導者・研究者の共同の取り組みで確立されていました。その内容を詳しく把握しており、研究所の仕事の一環としてボート競技のドイツ代表選手の乳酸測定にも携わっていた経験があるということで私に白羽の矢が立ったようです。
この取り組みをきっかけにして、私と同じドイツの研究所への留学経験がありボート選手としてのキャリアもある内科医の牧田茂先生(現在、埼玉医科大、日本ボート協会医科学委員)や龍谷大学の村田健三郎先生と一緒に、琵琶湖(瀬田)をトレーニング拠点としている幾つかの大学生や社会人のボートチームのトレーニングのサポートに乳酸測定を中心にしながら携わることになりました。
私たちの研究者グループの貢献度は微々たるものだったと思いますが、各チームの選手や指導者は自分たちで新たなコンセプトのトレーニングを積極的に工夫し、質の高いトレーニングを実践し目を見張るような好成績を残していきました。そして、それらの優れた実践から多くのことを学ばせてもらうことができました。
その後、当時大学生ボート選手だった坂本剛健君が大学院生として私の研究室で学ぶこととなり、彼とともにボート競技のトレーニングについて実践に直結した研究をさらに深めることになりました。ちなみに、坂本君は「ボート競技の生理学的特性および運動負荷テストシステムの研究」というテーマで博士論文を書き上げ、現在、瀬田漕艇クラブおよび日本代表チームのコーチとして活躍中です。
ボート競技のトレーニングについて教えてください。
ボート競技では、現在、フィジカル面では国際的にかなり共通したコンセプトのもとにトレーニングが行われています。その基本的な共通点は「有酸素的能力のトレーニングの徹底重視」であり、その根拠はレースパフォーマンスにとって有酸素的能力が極めて大きな役割を果たしているという競技特性にあります。ボート競技のレースにおける有酸素的および無酸素的エネルギー供給の割合は、それぞれ70〜80%および20〜30%と報告されています。
この有酸素的能力重視のトレーニングコンセプトは、1970〜80年代に成功をおさめた旧東西両ドイツの豊富な量の持久的トレーニング(extensive endurance training)のコンセプトがベースになっており、基本的には血中乳酸濃度4mM以下(特に2.5mM以下)の強度での豊富な量のトレーニングにより基礎的な持久的能力(basic endurance capacity)を十分に高め、その状態を土台にして次のステップでさらに高い強度のトレーニングにより最大酸素摂取量および最高乳酸濃度を高め、そして最終的に主要な試合で高いパフォーマンスを発揮できるコンディションに仕上げていこうというものです。最終的な仕上げのステップは“試合用の体力の構築のプロセス”と呼んでもいいでしょう。
このようなトレーニングコンセプトは1980年代中ごろより国際ボート連盟(FISA)が普及に努め、日本ボート協会のそれに呼応するかたちで国内でその普及に力を注いだという経過があり、我々の取り組みも結果的にはそのような大きな流れと軌を一にするものでした。
では、このトレーニングコンセプトを、ドイツの最新のボート競技の実践的トレーニング理論書であるFritsch著「ボート競技教本(Das grosse Buch vom Rennrudern) (2005)」示されているトレーニング強度カテゴリーを参考にしながもう少し分かりやすく説明することにしましょう(図1)。この強度カテゴリーのコンセプトは、実際のトレーニングのプラニングを助けるために、強度設定に関するおおよその目安を提供しようとするものです。
トレーニングは運動強度により大きく6つのカテゴリーに分けられます。 図の横軸はトレーニングの時間、縦軸は強度を示しています。 この強度は、2000mのレースタイムと血中乳酸濃度を主な手掛かりとして把握されています。
図1 トレーニング強度カテゴリー (Fritsch、2005)
Tは無酸素系の能力の向上を目的としたトレーニングの強度カテゴリーです。Uはレースに直結する総合的能力の向上を目的としたレースを想定したトレーニングの強度カテゴリーです。V〜Yは有酸素系の能力の向上を目的としたトレーニングの強度カテゴリーです。V〜Yの4つうちでXが「基礎的な持久的能力を高めるためのトレーニング」のメインとなる強度カテゴリーで、冬期および試合期のトレーニング全体をとおして常にしっかりと取り組むべき強度カテゴリーとして位置づけられます。
一番低い強度カテゴリーのYは、回復トレーニング強度と呼ばれたりもしますが、Xとともに基礎的な持久的能力を高めるのに有効であると考えられます。
われわれの経験では、X・Yのカテゴリーのトレーニングによって乳酸曲線の立ち上がりとして捉えられる乳酸閾値(LT)の向上が期待できます。
このX・Yのカテゴリーのトレーニングをベースとして、Wのカテゴリーのトレーニングを加えていくことによりOBLA(血中乳酸4mM対応強度)のさらなる向上が期待できます。
そして、さらにこれらのY・X・Wのカテゴリーのトレーニングをベースに、V・Uのトレーニングを加えることにより、最大酸素摂取量を向上させることが期待できます。
また、U.Tのトレーニングで最高乳酸濃度をある程度高めることができると考えられます。
参考までに、表1に有酸素系の能力の向上を目的とするトレーニングの強度カテゴリーV〜Yの血中乳酸濃度およびそれ以外の指標のおおよその目安(Fritsch、2005)を示しておきます。
表1 有酸素系の能力の向上を目的とするトレーニングの強度カテゴリーV〜Y
このような強度カテゴリーのコンセプトを参考にしながら血中乳酸値を実際のトレーニングに活かそうとする場合に、それほど頻繁に乳酸測定を行う必要はありません。
個々の選手の主要なトレーニングメニューの実施時に血中乳酸値を測定し、同時に心拍数、感覚として捉える自覚的運動強度、レース強度を基準とした強度把握(%レース強度)、ストロークレートなどとあわせて総合的にトレーニング強度を捉えることを何度か繰り返すうちに、選手自身がストロークレート、自覚的運動強度、心拍数、%レース強度と血中乳酸値との関係を自分でかなり的確に把握できるようになります。そして、血中乳酸値のことを念頭に置きながらも、おもにストロークレート、自分自身の感覚、心拍数などを手がかりにして目的にふさわしいトレーニンの強度を設定することが可能になっていきます。トレーニングが軌道に乗ってしまえば、あとは、選手や指導者が必要と感じたときに乳酸測定をおこなうという程度で十分でしょう。
ボート競技のレースでは血中乳酸値はどのようになりますか?
ボート競技の2000mレースに要する時間は6分〜8分ほどです。レース終了後の測定で高い血中乳酸濃度が認められることはよく知られています。ボート競技では、スタートからの500mで最も高いパワーを発揮するのが一般的で、血中乳酸濃度はすでにレースの2分目あたりでマックスに達し、その後は血中乳酸濃度が高い状態のままでレースを継続することになります。
ボート競技のレースのためには、エネルギー源としてグリコーゲンを無酸素的にも有酸素的にも高いレベルで利用できる能力が重要になります。十分にトレーニングを積んだ選手たちが、高い乳酸濃度レベルのまま高い強度でレースを続けることができることと関連して、レース中に乳酸がエネルギー源として骨格筋の遅筋線維や心筋で利用されている可能性が高いと推測されています。
血中乳酸値を用いてどのようにトレーニングすればよいのでしょうか。
先ほど説明した「乳酸を重要な指標としたトレーニング強度カテゴリー」をどう活用するかということがポイントになると思います。実践レベルでは、「トレーニングに伴なう乳酸曲線の変化」を念頭においた年間トレーニングコンセプトの中で強度カテゴリーを活かすというアプローチが有効だと思います。
ボート競技はシーズンスポーツなので、春〜秋の期間に行われる主要な試合に照準を合わせ、それまでの期間に適切な内容のトレーニングをステップを踏みながらしっかり積み重ねていくことが重要になります。
私たちは、図2のようにトレーニングによって乳酸曲線を変化させることにより試合期に高い競技パフォーマンスを発揮できることを目指す「仮説的トレーニング戦略コンセプト」を年間のトレーニングを構想する際の拠り所の一つとしています。
このトレーニングコンセプトの乳酸カーブは、ローイングエルゴメーターを用いた漸増的運動負荷テストによって得られます。横軸に強度(Watt)をとり、縦軸には血中乳酸濃度(mM)をとります。
年間のトレーニングのプロセスは順に追っていきますと、冬期トレーニングでは、まずカテゴリーYとカテゴリーXを組み合わせながら長時間(30〜120分)のトレーニングをメインにしてLT(おおよそ乳酸2mM対応強度)の向上を目指し、さらに徐々にカテゴリーWを徐々に組み込んでいくことによりOBLA(乳酸4mM対応強度)のより大きな向上(@)を目指します。
なお、冬期トレーニングの期間に、カテゴリーYだけのトレーニングに終始してしまうと、場合によっては最高乳酸濃度が著しく低下してしまう現象(4〜5mM以上の低下)がおこることがあります。冬期トレーニング期間での最高乳酸濃度のある程度の低下はネガティブに捉える必要はありませんが、著しい低下を起こさないように留意する必要があります(A)。
試合期に入れば、冬期トレーニングで養われた基礎的な持久的能力をベースにして“試合用の体力”を養っていくことが重要な課題になります。したがって、カテゴリーV・U・Tのトレーニングを積極的に組み込むことによって最大乳酸濃度の向上(B)や乳酸カーブの乳酸4mMよりも高い部分のさらに右方向へのシフト(C)を目指します。
他方で、試合期でも、カテゴリーX・Wのトレーニングは大切です。冬期トレーニングでしっかり向上させた高いレベルのOBLAを試合期に低下させないで維持するためにはカテゴリーX・Wのトレーニングが必要なのです。例えば、最高乳酸濃度を増大させても、OBLAを低下させてしまった状態では高いレースパフォーマンスを望むことはできません。
また、シーズンが終了したあとの一時期、いわゆるオフの時期は、カテゴリーYに対応する軽強度の有酸素レベルの運動(ローイング運動だけに限定せず、また無理して長時間行う必要もない)はある程度継続しながら、高強度トレーニングから心身を開放し、リフレッシュを図るようにします。このようなカテゴリーYレベル運動を少し工夫することで、オフ期間の乳酸カーブの左方向への大きな後退を防ぐことができます。
図2 乳酸曲線に基づく仮説的なトレーニング戦略コンセプト
(ボート競技の生理学的特性および運動負荷テストシステムの研究:坂本剛健より引用)
ボート競技のトレーニングにおける注意点はありますか?
ボート競技のレースパフォーマンスにとって、有酸素系ばかりでなく、もちろん無酸素系のATP-CP系、乳酸系を含めたいずれのエネルギー供給システムも重要です。したがって、ボート競技のトレーニングにおいて、ATP-CP系、乳酸系の高強度のトレーニングも、あるいはかなり強度の高い持久的トレーニングもそれぞれに年間の全体的なトレーニングプロセスの中で、重要な役割を果たすことになります。
しかし、トレーニング方法論的にまず何よりも優先されなければならない重要なことは、繰り返しになりますが「適度な強度(カテゴリーW,X,Y)での持久的トレーニングを十分に行い、有酸素的能力のベースをしっかりつくる」ことです。
このボート競技のトレーニングにおける有酸素的能力のベースづくりは、家を建てる時の基礎工事、すなわち土台づくりに例えることができます。しっかりした土台があってはじめていい家を建てることができるのと同じように、しっかりした有酸素的能力のベースをつくることによって、無酸素系のトレーニングや技術トレーニング、あるいは高強度の持久的トレーニングに質量ともに高いレベルで取り組めるようになり、最終的に重要な試合で高いパフォーマンスを発揮できるようになるのです。
15〜20年前までは、トレーニングというとコーチも選手も「きついほど効果的がある」と思いがちでした。だから、とかく持久的なトレーニングの場合も強度を必要以上に高く設定してしまう傾向がありました。ボート競技のトレーニングのサポートに携わった当初、有酸素的能力のベースづくりのトレーニングに関しては、選手からは「単調すぎてつまらない」といった声も聴かれましたし、また選手や指導者から「本当にこんな強度のトレーニングでよいのか」「いくらやっても無駄ではないか」という半信半疑の声も聴かれました。しかし、選手やコーチらは、「有酸素的能力のベースづくり」の有用性を、実際のレース結果も含めトレーニングプロセス全体の中での実感をとおして確信していったように思います。
最後にトレーニングにおける乳酸測定の意義について教えてください。
乳酸測定は、すでにお話したように、持久的トレーニングの強度を設定したり、あるいはトレーニング効果やトレーニング状態を把握しようとする際に役立ちます。
持久的トレーニングにおいて、十分な効果をあげるためにも、リスクを回避するためにも、運動強度を適切に設定することはとても大切です。
ボート競技のトレーニングの現場では、選手も指導者もそれぞれの立場からストロークレートとともに総合的な感覚を大切にして運動強度を把握しています。主観的な強度把握は実際のトレーニング場面ではきわめて重要です。ただし、時として主観だけに頼った強度の設定や把握が妥当性を欠くこともあります。そのような主観的な強度設定・把握の不十分さを補うという点で乳酸測定は有効に利用できるでしょう。
乳酸測定によって、運動強度が生理的なレベルで客観的に把握できるようになり、たとえばトレーニング強度が高くなりすぎないようコントロールするといったことが可能になります。実際には、先程も述べたように、持久的トレーニング時に乳酸測定を何回か繰り返すうちに、選手は自分自身の運動強度の感覚と乳酸濃度の関係性をかなり的確に把握できるようになり、頻繁に乳酸測定を行わなくても適切な強度でのトレーニングが行えるようになります。
私は、トレーニング強度に関して、特に“強すぎる強度のトレーニング”のリスクに十分な注意を払う必要があると考えています。頻繁に行われる強すぎる強度でのトレーニングによって心身ともに追い込まれすぎた状態が恒常化してしまうようなことは避けなければなりません。このようなリスク回避にも乳酸測定は役立ます。ボート競技では、じっくりとしっかりした有酸素的ベースをつくりながら息の長い競技生活を送ることにより本来持っている才能を大きく開花させることができるのです。
運動強度を抑えた長時間のトレーニングは選手にとって本当に効果があるのかどうかという半信半疑な気持ちを起こさせがちなのですが、その効果は漸増的運動負荷テストで得られる乳酸曲線の変化によって客観的に把握でき、そのことは選手にトレーニングに対する確信を与えることにもつながります。
また、実際の乳酸の測定値を手がかりにして、エネルギー代謝の視点から選手や指導者のボート競技の競技特性やトレーニングについての理解が進む点も、乳酸測定のメリットといえるでしょう。そして、選手や指導者がトレーニング戦略を立てていく上でも乳酸測定は有効に活用できると思います。
里見先生は、ドイツ留学中にサッカーのナショナルチームのチームドクターと同じ研究所でともに過ごした関係もあり、門外漢といいつつも実はサッカートレーニングの生理学についてもお詳しい。「サッカーで90分間走り続けることができるためのフィジカルトレーニング」についても面白いお話が聞けそうである。
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